明治26年(1893)- 昭和46年(1971)
本名・英一、字・子華
別号・樗庵、二葉、栖霞山人、來吉齋など
法号・書海院徳藝芳翠大居士
加藤芳雲・近藤雪竹並びに、日下部鳴鶴に師事
日本藝術院會員
財団法人書海社初代理事長
社団法人日展参与(審査員)
東方書道院顧問
明治26年(1893) 愛媛県、瀬戸内海の伯方島で薬局を営む利吉・トモヨの長男として誕生
明治40年(1907) 薬剤師免許取得のため上京、加藤芳雲に就いて漢籍と書法を納める
明治43年(1910) 明治薬学校卒業。薬剤師国家試験に合格も未成年のため免許が下りず
明治45年 大正元年(1912) 座骨神経痛療養で一時帰郷から再上京、近藤雪竹に師事する
大正05年(1916) 書道奨励協会『筆之友』の「特待生」に推挙される
同 年 渡邊沙翁急逝の後任に抜擢され日本郵船(株)に入社
大正10年(1921) 吉田苞竹、相澤春洋と共に競書誌『書海』を発行、翌年から単独経営
大正11年(1922) 平和記念東京博覧会に細楷「文天祥正気歌」他を出品、一等賞金牌受賞
大正15年 昭和元年(1912)大倉喜七郎の師範として「大倉組」の嘱託となり、横山大観、川合玉堂と同室に在席し、大いに益を得る
昭和03年(1928) 吉田苞竹、高塚竹堂と共に「戊辰書道会」設立に尽力し創立発起人となる
昭和04年(1929) 孫過庭〈書譜〉に関する新研究を発表、書壇にセンセーションを巻き起こす
昭和06年(1931) 河井荃廬を団長とする「南支書道視察団」に参加、約一月に亘り江南を歴遊
昭和07年(1932) 大倉喜七郎を会長に「東方書道会」を設立
昭和19年(1944) 戦火は広く国内に及び、六月号を以て『書海』を休刊
昭和21年(1946) 大阪に仮寓し、七月、愛知県刈谷にて『書海』を再刊する
昭和23年(1948) 第1回毎日新聞社主催〔全日本書道展〕審査員として「拜觀樂毅論」他出品
同 年 第4回〔日展〕より書道が第5科として参画し、審査員となる
昭和24年(1949) 高塚竹堂らと旧東方系が参集して「書道同文会」を創設
昭和27年(1952) 第1回〔書海社展〕を浅草・松屋で開催
昭和30年(1955) 楷書八尺「雄飛(大鵬一舉九萬里)」藝術選獎文部大臣賞を受賞
昭和32年(1957) 〔現代書道二十人展〕(朝日新聞社)が始まり、メンバ-として出品
昭和35年(1960) 前年の日展出品作「談玄観妙」で〈日本藝術院賞〉を受賞
同 年 戦中から約十年間の自詠漢詩集『劫餘詩存』(土屋竹雨圏点)を出版
昭和38年(1963) 1月に逝去した大倉喜七郎翁頌徳碑を揮毫、大倉集古館前に建碑(11/15)
昭和45年(1970) 紺授褒章を受章
昭和46年(1971) 12/15 日本藝術院會員に就任の発令を受けるも、翌12/16 心不全で急逝